第二次世界大戦は、日本の至るところに戦禍の爪痕を残した。都市の多くが焼き払われ、生産機能は
麻痺し、輸送機関も荒廃し、農業生産も落ち、失業に加え食糧難が襲い、まさに「飢えと乏しさの
時代」であった。
中島飛行機(株)は、終戦と同時に富士産業(株)と改称し、戦時中の航空機製造技術を国土の復興
と国民生活の再建に生かすべく民需品の生産に力を注いだ。
このころ、個人用の乗り物の主たるものは自転車であったが。公共輸送機関が半ば麻痺状態に陥った
ため、より高速で輸送効率の高い乗り物の需要が増加した。
その期待を担って登場したのがスクーターとオートバイであった。特にスクーターは、時代にマッチ
し、手軽に誰にでも運転が出来る乗り物の花形として人気を呼んだ。
富士産業(株)のスクーター生産は、終戦直後、アメリカ軍落下傘部隊用のスクーター「パウエル」
が太田(呑竜)工場に持ち込まれたことに始まる。
戦時中、「隼」の生産に携わっていた技術者たちは、これを手本に我が国の交通事情に合った
スクーターを、エンジンは三鷹、車体は太田の分担協力で設計し、昭和21年6月、太田(呑竜)
工場で試作1号車を完成した。この試作車は車輪に、当時デッドストックとなっていた陸上爆撃機
「銀河」の尾輪をつけた2馬力135cc のスクーターであった。本格生産は翌22年に開始し、
「ラビット」の愛称で発売、爆発的な人気を博した。ラビットは、そのボディデザインが
「うさぎ」のイメージと重なり、また、スクーターという軽快な乗り物が、飛び跳ねるうさぎの姿を
連想させるところから命名したものである。
その後、改良車を次々と発売し、ラビットは市場の人気を独占し、国民の足となっていった。